手話演劇で「言葉」発信 意思を表現し伝える

2017.09.30 16:26|情報
以下、奈良新聞 より引用

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県立ろう学校(大和郡山市丹後庄町、永安直子校長)は、
聴覚障害のある子どもの教育に取り組んで1世紀近い歴史と伝統を誇る。
とりわけ全国のろう学校の中で唯一の演劇部は、2004年の創部から(中高合同)、
奈良県高等がj校文化連盟演劇部門および奈良県高等学校演劇研究会に所属し、
高等部は高校演劇大会や手話パフォーマンス甲子園などで高く評価されている。
同校演劇部顧問の綿井朋子教諭に、手話と共に生き、手話演劇で言葉を発信するまでの歩みについて
お話をうかがった。

【インタビュー】 県立ろう学校 綿井 朋子 教諭

◇愛情が絶対に必要

― ろう教育に携わるようになったきっかけは。
綿井/私が手話と出会ったのは、現在のろう学校に赴任してからです。

 地域の小学校で講師をしたとき、重度障害のある子どもと関わりました。
 最初はどうしていいかわかりませんでした。一人で歩くこともできない子どもでした。
 しかし、関わっていくうちに、子どもは成長していきます。
 歩けるようになり、トイレットトレーニングもできるようになりました。

 教育相談で指導を受けた先生からは、「愛情が絶対に必要です」と言われました。
 それがなければ障害児教育はできない、きっちりと受け止めて関係を作っていかないと ― と言われました。

 その後、別の小学校では、肢体不自由の子どもを担当しました。その子は絵を描くのが好きでした。
 何年か後に個展が開催され、人工呼吸器をつけた彼の思いが伝わってきました。
 そのような子どもとの出会いがあり、障害児教育に携わる教員になろうと思い、採用試験を受けたのです。

◇扉を開け自己開放

― それで手話と出会ったのですか。

綿井/赴任した頃は中学部担当でした。ろう学校も手話もすべてが初めてで、何がなんだかわからず、
 コミュニケーションもまったくとれず、教師として自覚をもつには、3、4年はかかったと思います。
 教科指導もそうですが、生徒と向き合うことができず、何か物足りないという気持ちがずっとありました。
 自分は本当に教師になりたかっただろうかと、自己嫌悪に陥ることも少なくありませんでした。
 今でこそ生徒には「自信を持って」というのですが、自分自身に自信をもっていなかったのです。

 ろう学校に赴任して数年後、今はもう亡くなられたのですが、ろう学校の同僚の先生とお芝居を見る機会がありました。
 それは、岐阜のろう劇団「いぶき」の舞台でした。役者の体からにじみ出る表現に驚きました。
 手話がわからなくても感情が伝わってくるのです。

 また、関東のデフ・パペットシアターひとみという人形劇団の舞台も何度か見に行きました。
 役者は人形の使い手であると同時に、完全にその人形の役になりきり、まるで人形が生きているかのようです。
 一体感がありました。ろう者が演じる世界に魅かれ、ろう文化を意識したのもこの頃だったと思います。

 そして、福島県立聾学校で演劇指導されていた先生が中心になって毎年夏に開催される
 身体表現セミナーに参加するようになったのです。
 そのセミナーは3日間の日程で行われました。
 私が見たあの舞台のろう俳優たちが各分科会の講師となって、直接身体表現を体感することができました。
 最終日には発表会が行われます。私はこのセミナーに数回参加しましたが、このセミナーに初めて参加した時、
 今までに感じたことのない解放感を味わいました。自分で閉じていた扉が開き、気持ちが開放されていくのを感じました。
 「ろうの生徒と関わるためには自分の表現力がもっと必要」と、その先生から言われたことを今もよく覚えています。
 自分のテンションが高まっていく、自分を出すという中から、
 自分が主体性を持って生きていけるのではないかと思うようになったのです。

◇演劇で自分を表現

― ろう学校での教育実践をうかがいたいと思います。

綿井/演劇部の顧問をする前は、中学部の担当でした。生徒たちが非常に不安定な時期がありました。
 本質的には、いまでもそうなのですが。中学生は思春期の真っただ中で感情の爆発の仕方がさまざまなのです。

 毎日のように、どこかで、何かが、誰かが、いわゆるトラブルが頻繁に起こり、なかなか解消されずに
 人間関係にも大きく影響しました。そんな中で、自分が福島で経験したことを活かし、
 中学部全員の生徒で文化祭の発表を目標に身体表現に取り組んだのです。
 ケンカばっかりの、バラバラだった気持ちが、一緒に活動を共にすることで、仲間を意識し、認めあう。
 そんな成功体験が、のちの活動につながっていったのではないか思っています。
 その時の生徒が高等部に進級し、「もっとやりたい」と言い出したことを発端にして、
 亡くなった同僚と「やろか」となって、さらに校内ではなく、「校外で発表しよう」という流れになって、
 県高校演劇に足を踏み入れるきっかけになっていきました。
 さらに、新しく受け持った中学部1年生でも文化祭で芝居をやったのですが、
 その時の仲間意識と一瞬の結束がベースになって、その学年の生徒たちを軸にのちに生徒から
 「演劇部を作りたい」と声があがり、演劇部を作ろうということになっていきました。
 演劇経験も知識もないのに、あと先も考えずに始めてしまったというのが、正直な気持ちです。

 でも、なかなか自分を認めてもらえない存在の生徒たちが、演劇を通じて仲間の存在を知り、認め合い、賞賛を得、
 互いに共有しあう喜びをかみしめる、そんな経験が人として心の成長に大きく関係するのではないかと思っています。
 演劇という形で自分を表現していくようになっていく生徒たちを見て「演劇で人は変わる」と。

◇心の安定から構築

― 演劇部での指導についてうかがいたいと思います。

綿井/演劇部を創部して14年目になりますが、人間関係をこうちくしていくところから始まりました。
 ときには、家庭訪問を何度もしたり、何度も話し合って、心の安定をつくりだすことが先決でした。
 自分の障害に悩んだり、将来を不安に思ったり、孤独感を味わったり、ネガティブになったりします。

 心が安定していない状態では演技指導どころではありません。
 生徒たちの認めてもらいたいという承認欲求と心の安定感があって初めて前向きになれるのだと思います。

 2004年に奈良県高等学校演劇研究会に正式加盟し、他の高校と同じ大会に出場するようになりました。
 この頃は、まだ音声言語を使ってセリフを表現していました。
 初めて出場した地区大会は審査員から高く評価されましたが、それは、障害者が努力したことへの評価でした。
 県大会に初出場した時には、「手話にも個性があるはずだ」と指摘をうけました。
 次の年では、音声ではなく、日本手話での表現に重きをおいて挑みました。しかし地区大会でだめでした。
 「手話ではわからない」きっぱりと言われました。内容が全然伝わっていなかったのです。

 奈良県高等学校演劇研究会創立30周年の年には、私は記念大会として北ブロックの演出を委嘱されました。
 他校の高校生と共演するのは初めての経験でした。たちまち言葉の壁が立ちはだかりました。
 演劇は共感しあえる関係がないと成り立ちません。啓子に集まっても、聞こえる、聞こえない同士で集まってしまいます。
 言葉がわからないという不安から泣き出してしまう生徒がいました。そこで私は、疑似体験をしてもらったり、
 セリフに出てくるキーワードとなる言葉を全員が手話で表すように、覚えてもらったりしました。
 最初は抵抗がありましたが、やがて生徒たちの間で主体的に手話学習会が行われるようになりました。
 互いに手話を理解することでだんだん心が通い合うようになっていったのです。
 この記念大会から字幕をつけました。

 このような取り組みを経て、共感しあうという姿勢が演劇にはとても大切なのだとおもって今も活動を続けています。

◇教育の場で啓発を

― 手話について、どのように考えておられますか。

綿井/手話は言語です。マイノリティーではありますが、一つの世界であり、文化であり、それを知ることが必要だということです。
 手話は、対面を基本として意思伝達する言語です。そして手話という言語は、音声言語とは異なる、
 視覚的に心情や風景を表現することができ、演劇ではきわめて有効な表現手段だと思っています。
 私は演劇をとおして手話の持つ表現の可能性を実感してきました。
 だから、生徒たちには、手話という言語を自分の自己表現の武器として
 これからも強い気持ちで、誇りを持って前進していってほしいと願っています。

 当面、県高校演劇発表会、全国高校生手話パフォーマンス甲子園、全国障害者芸術文化祭なら大会での
 手話パフォーマンスステージなどに向けての指導があります。

 そして長いスパンで見たとき、演劇を通じて、あるいは、教育の場で、手話という言語の普及啓発をし、
 やがて社会を変えていくことができればと思います。
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意思疎通に「手話」重要 県民の理解と普及を

2017.09.29 13:35|情報
以下、奈良新聞 より引用

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奈良県手話言語条例の制定は、
「手話に言語を含む」と明記した「奈良県障害のある人もない人もともに暮らしやすい社会づくり条例」制定以降、
障害の有無にかかわらず、相互に人格と個性を尊重し合いながら、
安心して暮らすことができる社会の実現を求める聴覚障害者の願いが条文化されている。
条例制定にも意見を表明するなどの活動を行ってきた一般社団法人奈良県聴覚障害者協会の村上武志理事長に
お話をうかがった。

【インタビュー】 一般社団法人奈良県聴覚障害者協会 村上 武志 理事長

◇手話を第一言語に

― 聴覚障害とはどのようなものでしょうか。

村上/聞こえない人を聴覚障害者と言いますが、聴覚障害の原因や種類、聞こえの程度がさまざまなため、
 聴覚障害者は、「中途失聴者」「難聴者」「ろう者」に分かれますが、コミュニケーション方法が違います。

 中途失聴者は、音声言語を獲得した後に聞こえなくなった人で、まったく聞こえない中途失聴者でも、
 ほとんどの人は話すことはできます。
 難聴者は聞こえにくいけれど、まだ聴力が残っている人です。
 補聴器を使って会話できる人から、わずかな音しか入らない難聴者までさまざまです。
 ろう者は、音声言語を獲得する前に失聴した人で、そのため手話を第一言語としている人がほとんどです。

◇視覚情報の必要性

― 聞こえないことで、日常生活はどのような点で困りますか。

村上/私はろう者ですので、私の体験で話をさせていただきます。
 私は印刷会社の会社員ですが、通勤途中で電車が急に止まったとします。
 止まったということは分かりますが、情報は音声アナウンスなので、状況が分からないのです。
 視覚情報が必要だと思います。
 会社ではコミュニケーションが重要ですが、筆談、特に要約筆談では理解が困難な場合が多いです。
 文字言語に置き換えると、デリケートな、言いたい部分がうまく伝わらないのです。
 テレビでは字幕が増えてきましたが、普及はまだまだです。
 字幕と合わせて手話ワイプもつけて、どんどん増やしいく必要があります。

 それと歴史的な問題なのですが、ろう学校の教育において、口話教育が用いられるようになりました。
 これは読唇と発声訓練を中心としていますが、その結果、ろう者の尊厳は傷つけられ、
 十分な学力が保障されない状態になります。ろう者には手話による意思疎通が重要です。

 率直に言って、見えないところで障害があり、差別があります。
 聞こえていないいと分かったら、筆談するなりパソコンで表示するなりする人はまだいいのですが、
 聞こえていないことに何の配慮もしない人がいるのです。
 またある有名な近代産業遺産の観光地では、聴覚障害者は危険だからという理由でツアーに参加させてくれません。

― 手話言語による意思疎通にとって重要と思われることは。

村上/コミュニケーションは、単に音声言語だけではなく、顔の表情や手、指の動かし方などの視覚言語も重要です。
 そのことを理解していただいたうえで、手話でのコミュニケーションが必要であることを社会的に理解してほしいと思います。

 たとえば食事して「おいしい」と筆談されても、ピンとはきません。
 手話で「おいしい」と言われれば、そこには「おいしい」という気持ちが伝わってきます。
 災害に遭って、手話で「津波だ、逃げろ」といわれれば、緊迫感が伝わってきます。
 しかし「逃げろ」というメモを見せられても、何がどの程度危険なのか、実感は沸きません。

 また手話以前の問題として、メモ用紙を用意していないお店が結構あって、分からないで通されてしまう場合があります。
 お店はどんなお客様が来るか分からないのですから、せめてメモ用紙ぐらい置いてほしいと思います。

◇聞こえる人と交流

― このたび奈良県手話言語条例が制定・施行されました。
 県民に知ってほしいこと、今後に期待されることについてうかがいたいと思います。

村上/奈良県手話言語条例の要点は、県が市町村と連携して、手話の普及に必要な施策を定め、
 これを統合的かつ計画的に推進することです。
 すなわち、手話を使用しやすい環境を整備していくと定めていることです。
 条例の制定過程においては、私も意見を述べさせていただきました。

 手話によるコミュニケーションができないと、地域社会などで受け入れてもらえないのです。
 私の場合、3人兄弟の真ん中で、兄と弟は聞こえます。
 しかし私はろう者なので、地域の子供会などに参加できなかった経験があります。
 そのような自分の経験を、これからの世代のろう児に味わってほしくないという思いがあります。

 奈良県手話言語条例の制定を機会に、県民のみなさんが手話に関心を持ち、理解し、習得していくようになればと思います。
 手話は一見難しそうに見えますが、手話通訳者になるのならともかく、日常生活の意思疎通レベルでしたら、
 きちっと学ぶ機会があれば習得は困難ではありません。
 ろう者と聞こえる人の理解と交流が深まり、それが奈良県から全国へと広がっていくことを期待しています。

47歳、味に自信の串カツ開店 注文は紙に

2017.09.25 09:56|情報
以下、毎日新聞 より引用

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両耳がほとんど聞こえない男性が今月、京都市左京区の京都大近くに串カツ店をオープンさせた。
大津市在住の前川憲司さん(47)。本場の大阪で学び、京風にアレンジした串カツを提供する。
カウンター15席だけで、注文は紙に書くシステム。
「お客さんの呼びかけにすぐには気付かないこともあるけど、味には自信がある」。
学生らが行き交う街の一角で新たな挑戦が始まった。

9月中旬の平日の夜、「串カツ&バー 前川屋」は、予約客で半分ほどが埋まっていた。
串カツや串焼き、どて焼きなどが並ぶメニュー表と一緒に「私達は聴覚障害を持っています。
注文される時は“お会計票”に書いて下さい」との注意書きが置かれている。
平日に共に店を切り盛りするスタッフも聴覚障害者だ。

オープン間もない今は、客の6割が聴覚障害者、4割が健聴者という。
聴覚障害者が客の時は、前川さんは対面式の調理場で忙しく料理を作りながら、手話で世間話に花を咲かせる。
フェイスブックなどで知り、海外の聴覚障害者が訪れたこともある。

前川さんは京都市出身。4歳の時、原因不明の高熱が出た後、聴覚をほとんど失った。
手話を覚え、地元のろう学校を卒業して製造会社に勤めたが、自分のペースで働くため店を持とうと決意。
家族に料理を作り喜ばれた経験があったことなどから、飲食店を目指し、
2015年から知人が経営する大阪・通天閣近くの串カツ店で修業を始めた。

他の従業員の動き方を観察し、分からないことがあれば何度も尋ねて相手の口の動きを読み取って仕事を覚えた。
串カツ店では、油の音の変化で揚がったかどうかを知る人も多いが、
代わりに具に刺したつまようじを手首にあて、熱さを確認するようにした。

京都の別の場所での8カ月間の営業を経て、今年9月1日、現在の場所で店を構えた。
大阪で習った方法を基に、ソースは京都の人の好みに合うよう、さっぱりした味にアレンジ。
バリッとした衣になるよう、小麦粉の品種や水との配合にも工夫を凝らした。

前川さんは「接客業をするうえで、障害はハンディキャップかもしれないが、越えられない壁ではない。
 串カツを食べたお客さんの笑顔が何よりのやりがい。いつか聴覚障害者が店を経営していることが
 当たり前になればいい」と話す。

営業時間は午後6時~午前0時。月曜定休。予約や問い合わせは前川屋のフェイスブックページから。

力強い演技に歓声 - 県立ろう学校演劇部が熱演

2017.09.22 14:06|情報
以下、奈良新聞WEB より引用

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大和郡山市丹後庄町の県立ろう学校(永安直子校長)の演劇部が21日、
川西町結崎の川西文化会館で開かれた県高等学校演劇発表会C地区大会に出演した。
本年度高校演劇コンクール発表作品「ある日、ぼくらは夢の中で出会う」を上演。
全身を使ったダイナミックな手話で会話を表現した演技などに、観客から大きな拍手、歓声が沸き上がった。

高等部の部員4人が刑事、誘拐犯各4人を一人二役でそれぞれ熱演。
背景に映し出される字幕も同部員が担当するなど、躍動感あふれる舞台を作り上げた。

顧問の綿井智子教諭は「虚構と現実の世界が入り混じり、観客が混乱するような世界を描いた」と
出来栄えに手ごたえを口にした。

また自身の出演を終えて鑑賞していた、県立高取国際高校1年の 小林 彩乃さん(15)は
「出演者の動きのキレがすごい。物語と音響もよくマッチしていた。
 刑事と犯人の入り組んだストーリーが面白かった」と話した。

わたしの生き方 当たり前の存在に

2017.09.21 15:18|情報
以下、毎日新聞 より引用

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◇忍足亜希子さんインタビュー

耳が聞こえないのは生まれつきですが、周囲が気付いたのは3歳ごろ。
両親と弟は聴者(耳が聞こえる人)で、話しかけても振り向かないのをおかしいと思ったそうです。
ろう学校が近くになく、両親が生まれ育った横浜市に引っ越しました。

当時のろう学校は手話が禁止されていて、発声や口の動きを読み取る「口話教育」が授業の中心。
聴者に合わせることが、社会への順応につながるという考えが前提にあるのでしょうね。
家族のコミュニケーションも口話で、手話は社会人になるまで知りませんでした。

東京の短大に進学し、初めて聴者の友達ができました。学力が足りず4年制大学には行けなかった。
ろう学校では口話教育に多くの時間が割かれるので、普通の勉強は遅れがちなんです。
大学では講義を書き取るノートテークや手話通訳の支援がなく、友達に頼むしかない。
優しそうな人を見つけてお願いすることが、最初の関門でした(笑い)。今は支援を受けられる大学が増えています。

父が航空機の整備士だったことから、キャビンアテンダントに憧れていた。でも「お客さんと意思疎通できないとだめ」と。
絵を描くのが得意で漫画家になりたかったけど「語彙(ごい)力や知識が必要」と言われてあきらめた。
自分に何ができるのかわからなくて、短大の先生が紹介してくれた銀行に就職しました。
人と関わらなくてもできる事務仕事で、毎日同じ繰り返し。5年で辞めて「自分探し」の旅に出ました。
その少し前、手話サークルの講師に誘われてテレビ番組に出演したんです。
子供の頃から見ていたノッポさんと一緒で、すごく楽しかった。人前に出ることに興味を持つきっかけになったかもしれません。

28歳の時、友達のすすめで受けた映画「アイ・ラヴ・ユー」のオーディションに合格。
聴者とろう者の共同監督で、ろうの女優が初めて主演するという画期的な作品でした。
映画の中に「手話は日本語や英語、フランス語と同じ一つの言語」というセリフが出てきます。
母はショックを受け、手話の大切さを理解したみたいです。ろうの俳優は少なく、役も限られている。
かわいそうで孤独な存在として描かれることが多いけれど、実際は楽しく生きています。
ドラマや映画にもっと当たり前に登場するようになってほしいです。

共演した萩原聖人さんの草野球チームの試合で、夫と出会いました。実は結婚するまでに2度別れたんです。
ろう者と聴者の恋愛は長続きしない。特に女性がろう者、男性が聴者のカップルはすごく少ない。
女性が男性をサポートするのが当然だとされているからでしょうか。
夫は最初のデートで「手話を教えてほしい」と言って、一生懸命勉強してくれた。
10年前から音楽と手話を融合した「手話ソングライブ」を主宰していて、夫婦で手話教室も開いています。

41歳で子供に恵まれました。産声は、胸に抱いた時の振動で感じた。
夜中に赤ちゃんが起きても気付かないので、泣き声に反応して強く光るランプを買ったんです。
夫が先に起きることになるんですけど(笑い)。積極的に協力してくれるので、苦労したと思ったことはありません。

娘は聴者ですが、最初に覚えたのは手話。10カ月の時、ご飯をあげると頬をたたいて「おいしい」って。
誰にでも優しく、大きな希望を持ってほしいという願いを込めて優希と名付けました。
私はなかなか夢を見つけられませんでしたが、娘には目標をしっかり持ってほしい。
聴者とろう者の懸け橋になってくれれば、と思います。

盲ろうの東大教授(その2止) 盲ろうと生きて

2017.09.19 11:02|情報
◆福島智さんの思索と模索

指点字、孤独を解放

目が見えず、耳も聞こえない「全盲ろう」とは、どんな世界なのだろう。
全盲ろうの東京大教授、福島智さん(54)に誘われ、障害を疑似体験できる器具を装着して大学の構内を歩いてみた。

あそこに机があったな……。最初の十数歩こそ、直前に見た光景を思い描いてどうにか歩けた。
だが、すぐ位置関係が分からなくなった。サポート役の人の服をつかむ手に力が入り、汗が噴き出す。
大きな段差を上った時、次の一歩を踏み出せなくなった。
視覚障害者用の白いつえで探っても足を怖々と伸ばしても、先の地面が確認できない。
音がしない闇の世界。不安でいっぱいになった。

福島さんによると、盲ろうになった時の衝撃は失明した時とは比べようもない大きさだった。
しゃべることはできても、外部の情報は点字を読み取ることでしか得られなくなったからだ。
「『見えない』『聞こえない』より、コミュニケーションの手段がなくなったことで完全な孤独を感じました」

福島さんは3兄弟の三男として神戸市で生まれた。
病により3歳で右目の視力を失ったが、幼かったため実感はほとんどなかった。
9歳で全盲となっても「周りの人と違う世界にいる」と感じつつ、
落語の物まねをしたり、人形劇を創作したり、活発さは変わらなかった。
1979年に唯一の国立盲学校、筑波大学付属盲学校(現・筑波大学付属視覚特別支援学校)高等部に入学。
寄宿舎生活をしながら軽音楽やスポーツに熱中した。

しかし、高等部2年の18歳の冬、さらなる試練が襲う。
高度難聴になっていた右耳に加え、左耳の聴力も急激に悪化し始めたのだ。
休学して神戸で自宅療養。失聴の恐怖を振り払うように薬物療法の他、
東洋医学の医師の勧めで玄米菜食や毎日10キロのランニングをした。
母の令子さん(84)は伴走用にひもを腰に付けて自転車に乗り、雪の日も一緒に走った。
「智も私も、必死でした」。前向きで朗らかな息子が当時吐き出した言葉をはっきりと覚えている。
「この広い世の中で、僕の耳を治せる医者は一人もおらんのか!」

福島さんが思索を深めるようになったのはこのころだ。
カフカ、トルストイ、芥川龍之介……。国内外の文学を点字本で読みあさり、日記をつづった。
当時、友人に送った手記にこんな一節がある。
<俺は何をするために生きているのだろうか? 俺の存在に意義があるのだろうか?>

2カ月半後。81年の春のことだ。
「はよせな、病院に遅れるやないか」
皿洗いをしていた令子さんのいる台所に、福島さんがいらついた様子で入ってきた。
このころ、令子さんは点字タイプライターを使って紙に点字を打ち出し、
福島さんがそれを触って読み取る形で会話をしていたが、近くにタイプがなかった。
ふと思いつき、福島さんの両手の上に指を重ねて点字タイプを打つ仕草をしてみた。

点字は、縦3列、横2列、計六つの点の並びで文字を表す。
例えば、左上だけ出っ張り(突点)があれば「あ」になる。
点字タイプはそれぞれの点に対応するキーが六つ並び、左右の人さし指と中指、薬指の計6本で打つ。
そのキータッチの要領で各指を押したのだ。
<さ・と・し・わ・か・る・か>

令子さんは「バカにするな」と怒られるかと思ったが、福島さんは上目遣いでニヤッと笑った。
「分かるで」。新たなコミュニケーション手段「指点字」が生まれた瞬間だった。

自宅療養を終えて盲学校に戻ると、仲間たちが早速、指点字で話しかけてくれた。
<待ってたのよ><どこか飯でも食いに行こうぜ>。孤独から解放された。

指点字は仲間たちによってさらに発展する。3カ月後のある日、3人で入った喫茶店でのこと。
先輩の女性が、こんな指点字を打ってくれた。
<M:I君はいつおうちに帰るの?>
<I:うーんとね、22日に帰ろうと思うんだけどね>
発言者とその内容を、台本のように再現したのだ。

単に<I君が22日に帰る>とするより、発言のニュアンスが伝わり、情報量が圧倒的に多い。
1人が指点字を使えれば複数の会話にも入れるし、状況説明も加えられる。
この手法は「指点字通訳」と呼ばれ、通訳行為は盲ろう者の活動に欠かせない支援となった。

福島さんは盲学校時代から研究者を目指していたわけではない。
大学進学の動機も「兄たちも行っていたから」という漠然としたものだった。

盲ろう者として初の大学進学に挑む福島さんをサポートしようと、盲学校の教員らは「福島智君とともに歩む会」を結成。
83年に合格した東京都立大(現・首都大学東京)での授業の通訳などを通じ、盲ろう者支援の原形ができた。
91年には、歩む会を母体として社会福祉法人「全国盲ろう者協会」が発足し、
通訳者派遣事業などが全国に広がった。協会の事務局長を務める山下正知さんは言う。
「盲ろう者への社会的な支援は、福島さんの進学支援から始まったんです」

福島さんが研究者を志したきっかけは大学院に進み、ゼミで「能力主義」の議論をしたことだった。
障害のある人とない人は労働や生産の能力が違う。その違いで人の価値に優劣をつけていいのか。
障害者問題にとどまらず、あらゆる差別問題、誰もが生きやすい社会の実現に関わる話ではないか。
そう考え、物理的なものから社会システム、心にまで及ぶ「バリアフリー」を研究テーマにした。

研究と並行して力を入れているのが、同じ盲ろう者への通訳派遣の拡大だ。
福島さんの隣にはほぼ常に2人の指点字通訳者がいるが、国内の盲ろう者推計約1万4000人のうち、
通訳を利用しているのは約1000人。利用時間も月平均16時間だ。
「まだたくさんの人が孤独に閉じ込められたままになっているんです」

多くの人に支えられてきた人生。だからこそ、後に続く道を開くことが使命と感じている。

苦悩もすべて意味ある

福島さんが盲ろう者として初めて大学に進学した時、マスコミから「日本のヘレン・ケラー」などと持ち上げられた。
だが本人は、それを重荷に感じていたという。
2003年4月には米誌タイムが「アジアの英雄」として29個人・団体を選び、福島さんは松井秀喜さん、坂本龍一さんらと名を連ねた。研究面でも移籍した東京大先端科学技術研究センターでプロジェクトを任され、さらなる活躍が期待された時、体調に異変が起きた。不意にめまいがし、ふらふらするのだ。

耳鼻科や神経内科を受診しても異常は見つからない。
そのうちエネルギーが切れたように動けなくなり、人に会うのもつらくなった。

2年後、たどり着いたストレス外来で診断されたのが「適応障害」。
ストレスが原因で感情や行動が制御しづらくなり、社会生活に支障をきたす精神疾患だ。
日ごろの疲労や人事を巡る問題で、精神的な負担が積み重なったらしい。
見えなくなっても聞こえなくなっても乗り越えてきたから精神は強い、と自負していたが、
意思の力とは違うところで脳は影響を受けるのだと実感した。
適応障害は断続的に再発しており、つらい時は大学を数カ月休んでいる。

昨年7月26日に相模原の障害者施設殺傷事件が起きた時、福島さんは何度目かの休職中で、自宅療養をしていた。
午前に病院に行き、帰宅してから点字用パソコンでニュースを知って、背筋が凍った。
研究室のスタッフに、マスコミのニュースやインターネット上の書き込みの収集を頼んだ。
頭に浮かんだのは、人の優劣を定めて命を選別する優生思想に基づき、
ナチスが精神障害者や知的障害者ら20万人を殺害したとされる事件だ。

闘わなければ--。徹夜で考えたことを文章にまとめ、旧知の毎日新聞記者にメールを送った。
事件2日後の夕刊1面に掲載された手記は、事件は生命を奪うと同時に人間の尊厳を否定する「二重の殺人」と断じ、
社会に警鐘を鳴らす内容だった。

(事件は)今の日本を覆う「新自由主義的な人間観」と無縁ではないだろう。
労働力の担い手としての経済的価値や能力で人間を序列化する社会。
そこでは、重度の障害者の生存は軽視され、究極的には否定されてしまいかねない。

しかし、これは障害者に対してだけのことではないだろう。
生産性や労働能力に基づく人間の価値の序列化、人の存在意義を軽視・否定する論理・メカニズムは、
徐々に拡大し、最終的には大多数の人を覆い尽くすに違いない。
つまり、ごく一握りの「勝者」「強者」だけが報われる社会だ。すでに、日本も世界も事実上その傾向にあるのではないか。

今年6月。福島さんは大学の講義で、生産活動ができない人は安楽死させた方がいいという植松聖被告の考えを
「どう思いますか?」と問いかけた。
ある学生が、本人が意思表示できない場合は家族が決めても構わないと答えると、
福島さんは盲ろうになった当時のエピソードを紹介した。
毎晩のように泣く母を見て、父正美さん(88年死去)は言った。
「智と無理心中しようと思ってるのか。智は迷惑やと言うぞ。死にたけりゃお前一人で死ね」

そのことを後日知った福島さんは「無理心中は殺人だと告げつつ、母を励ました」と受け止めている。

「いい命、悪い命と選別する気持ちが根底にあると、どんなにバリアフリーにしても意味がない」

7月、福島さん宅を訪ねた。
3DKの集合住宅。2年前に再婚した妻の香菜絵さん(31)と笑顔で出迎えてくれた福島さんは
「西日がすごいんですよ。暑い時は板の間に寝転んで……」。少し甲高い声が柔らかい関西弁を心地よく響かせる。

香菜絵さんは福島さんの指点字通訳者だった。結婚後も支援スタッフの一人として公私の通訳を担う。
「ふーさん」「ぶぶさん」と呼び合う2人。妻の存在を福島さんは「牧場みたいなもんやな」。癒やしの存在といった意味らしい。
「君はどう?」。顔をのぞき込まれた香菜絵さんは、はにかみながら「安心できる感じがいつもある」と指点字で答えた。
仕事に集中して昼夜が逆転することも頻繁にある福島さんに対し、香菜絵さんは規則正しい生活が好き。
正反対の面もあるが、それが互いを補い、ほっとできる存在になっているように感じた。

生きる意味って何ですか? 改めて尋ねると、福島さんは「んー、んー」。
しばらく上を向いて考えてから語り始めた。「自分が気づいた時には、もう生きてしまっているんですよね……」

18歳で盲ろうになり絶望に陥った時、ふと「しんちゃん」のことが頭に浮かんだ。
近所に住んでいた幼なじみ。4歳の時に電車にひかれて亡くなった。
でも自分は盲ろうになっても生きている。これに意味がないなら、世の中すべてに意味がない。
ならば、すべてに意味があるんだ。生きることにも、盲ろうの苦悩にも意味がある--。そう思うことにしたという。
「祈りや願いに近い感覚でした」

盲ろうになって35年余。今も自分の胸に問い続けている。生きていることとは何なのか。
それを明かしていくことが自分の役割ではないか。
「ま、結局分からないんでしょうけども。でも考え続けることができたら、それで本望です」。笑顔がこぼれた。

胸に刻んでいる言葉がある。盲ろうになって間もないころ、友人が福島さんの手のひらに書いてくれた、短いメッセージだ。
<しさく(思索)は きみの ために ある>

盲ろうの東大教授(その1) 命の選別、許さない

2017.09.18 18:52|情報
献花台から、ユリの香りが漂っていた。7月26日の昼下がり。東京大先端科学技術研究センター教授の福島智(さとし)さん(54)は、入所者19人が刺殺された惨劇から1年がたった相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」にいた。

<盲ろうの東大教授(その2止)>盲ろうと生きて 有料記事 .
<盲ろう教育>礎、後世に 1950~60年代に山梨で実践 有料記事 .

 手向けたのは白いガーベラに紫のアガパンサス、黄緑のカーネーション……計19種類の花だ。氏名も公表されなかった犠牲者たちだが「それぞれの個性と人生がある人たち。皆さんのことを忘れません」。そんな思いをこめ、手を合わせた。

 福島さんは病気から9歳で失明、18歳で原因不明のまま聴力を失った「全盲ろう」の重複障害を持つ。殺人罪などで起訴された植松聖被告(27)は、事件前に衆院議長に渡そうとした手紙に「重複障害者は安楽死させた方がいい」との趣旨を書いていた。その論理だと自分はまさに「殺される側」。はらわたがえぐられる思いがした。

 全盲ろうとなった時、福島さんは「宇宙に一人漂っているような絶望」に陥ったという。しかし、母の令子さん(84)が生み出した「指(ゆび)点字」というコミュニケーション手段を得て、1983年に盲ろう者として日本で初めて大学に進学。バリアフリーの研究者を志すようになり、これも盲ろう者として初めて常勤の大学教員になった。

 ただ、期待と責任が大きくなるにつれ、精神的なストレスも膨らんだ。10年あまり前からは適応障害に苦しみながらも、障害者が活躍できる舞台を切り開いている。「生きる意味」を問い続ける姿を追った。

日本語字幕版上映スケジュールのご案内

2017.09.15 11:49|字幕付映画
東宝株式会社 西日本映画営業部より、情報提供です。

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「ナラタージュ」  日本語字幕版上映劇場

奈良県 TOHOシネマズ橿原
2017年10月22日~25日(4日間)

FAX 0744-21-6060

なお、変更がある場合もございます。
上映回数・上映開始時間も含め、
お出かけの際は念のため各劇場に
ご確認くださいますよう、よろしくお願いします。

日本ライトハウス展 ~全国ロービジョンフェア2017~

2017.09.13 09:29|情報
以下、盲ろう者の方より情報提供です。

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日本ライトハウス展 ~全国ロービジョンフェア2017~

西日本最大規模の視覚障害者用具・機器展
目の見えない方・見えにくい方に 楽しく、豊かな生活を!

日時 2017年9月30日(土)・10月1日(日)午前10時~午後4時
会場 難波御堂筋ビル7階ホール・8階大会議室(大阪市中央区)
交通 地下鉄御堂筋線「なんば駅」中改札から徒歩1分・なんば駅13番出口からエレベータ直結
入場 無料
主催 社会福祉法人 日本ライトハウス
共催 社会福祉法人 読売光と愛の事業団
後援 大阪市、一般社団法人 大阪府眼科医会、一般財団法人 大阪府視覚障害者福祉協会、
   一般社団法人 大阪市視覚障害者福祉協会、大阪府網膜色素変性症協会

◆44社・200点以上の用具・電子機器を一堂に展示・一部販売(7階・8階)

音声や触覚・見やすい表示で使いやすい生活用品や家庭電化製品。
本や書類を画面に大きく映したり、音声で読み上げる読書器。
安全・安心な歩行を助ける白杖。遮光眼鏡やルーペ。
初出展!シャープの「ロボホン(声をかけると可愛い声や動作で応えるロボット型スマートフォン)」や
「ドットウォッチ(4マスの点字ディスプレイが付いた腕時計型スマートウォッチ)」も紹介。
スマホ(スマートフォン)・タブレットの体験コーナーや、盲導犬ふれあいコーナーもあります。
※出展者一覧は、以下のホームページでご覧いただけます。
http://www.lighthouse.or.jp/iccb/nl2017/

◆特別ステージ「話題の人が登場! 参加型の特別新企画を実施!」(7階)

9月30日(土)

10:30~11:30
三宅 琢氏(東京大学先端科学技術研究センター 人間支援工学 特任研究員)
「情報保障としてのICT機器活用」
13:00~14:00
アプリバトル 出場者3名(当日公表)
「参加型企画:アプリで変わる、スマホ生活 あなたはどれに一票!?」
14:30~15:30
難波寄席
出演:半丸亭寿近(せみまるてい ジュニア)・半丸亭我ッ通(せみまるてい ガッツ)
現在、多方面で活躍中のお二人の落語をお楽しみください。

10月1日(日) 9時30分から入場可

10:00~10:45
高橋政代氏(理化学研究所 CDB 網膜再生医療研究開発プロジェクト プロジェクトリーダー)
「神戸アイセンターの紹介」
11:30~12:30
大阪あいねっと(大阪府眼科医会をはじめ、大阪府内の視覚障害関係8施設・団体・学校)
スマートサイト「大阪あいねっと」のお披露目
14:00~15:00
ビブリオバトル 出場者3名(当日公表)
「参加型企画:知的書評合戦~大阪秋の陣 チャンプ本を決めるのは、あなたの1票!」
その他のご案内

地下鉄「なんば駅」中改札前と難波御堂筋ビル1階でスタッフがお待ちしています。
ボランティアが会場内をガイドします(希望者多数の場合は、お待ち頂くことがあります)。
「ガイドブック」をお送りします

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展示内容を詳しく紹介した「ガイドブック」(大きめの活字、メール、点字、音声デイジー版のいずれか)を
事前に、無料でお送りします。(発送は9月中旬予定)

お問い合わせ、ガイドブックのお申し込み

 日本ライトハウス情報文化センター サービス部
 TEL 06-6441-0039(火曜日~土曜日、午前10時~午後5時)
 場所 大阪府大阪市中央区難波4丁目2-1

初の全職員が手話つかう発達支援事業所 聴覚障害児が気兼ねなく遊べる場に

2017.09.12 16:00|情報
以下、福祉新聞 より引用

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学校法人明晴学園(斉藤道雄理事長、東京都品川区)はこのほど、
未就学の聴覚障害児が通う児童発達支援事業所「めだか」を開設した。全職員が日本手話を使う。
身振りや顔の表情も含めた小さな発話を見逃さず、子どもが「伝わった」と思える場面を増やす。
同学園は「職員全員が日本手話を使う児童発達支援は全国初ではないか」としている。

「めだか」は月~金曜の週5日開く。1日の定員は10人。
同学園は今年3月まで自主的な取り組みとして週3日乳児クラスを開いていたが、
ニーズが大きいため福祉サービスとしての「めだか」を6月に開設した。

サービス内容は「個別相談」「指さしや動作を学ぶ集団遊び」などで、
ろう者を含む4~6人の職員が個別支援計画に基づいてかかわる。
「めだか」に通う2歳の男児の母親は
「ろうの職員だからこそ気付く、うちの子の身振りや表情があります。
 一人ひとりに目的を持ってかかわってもらえる点がありがたい」と話す。

児童発達支援は児童福祉法に基づくサービスで、日常生活の動作や集団生活への適応などを訓練する。
障害の種類は問わない。「めだか」を利用するには、自治体発行の受給者証が必要だ。利用者負担も発生する。

それでも利用登録数は今年3月までと比べてさほど減らない。
聴覚障害児が聞こえないことを気兼ねせずに遊べる場が圧倒的に不足しているからだ。

厚生労働省によると、児童発達支援事業所は今年4月現在で全国に4758カ所あるが、聴覚障害児の受け入れ実態は不明。
地域で中核的な機能を果たす児童発達支援センターは619カ所で、聴覚障害児を受け入れるのはわずか20カ所。
手話を使う事業所はさらに少ない。

一方、ろう学校は手話を使う教員ばかりではなく、3歳未満児の受け入れは学校による任意なので標準化されていない。

「本当は『めだか』に週5日通いたいという親子もいますが、1日10人までなのでお互いに譲り合ってもらっています。
 その結果、週2日通う親子が多いのが現状です」と同学園の玉田さとみ理事は言う。

同学園は2008年4月、日本手話で教育するろう学校を開設。
幼稚部から中学部まであり、「めだか」はそこに隣接しているため異年齢児との交流も定期的に行っている。

日本手話は日本語と異なる文法を持ち、眉など顔の部位を動かすことも文法要素だとされている。

「声かけてくれて ありがとう」 盲導犬使用者らがシール手渡す運動

2017.09.07 12:56|つれづれ
以下、福祉新聞 より引用

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全日本盲導犬使用者の会(郡司ななえ会長)は8月28日、
街中で手助けが必要か声を掛けられた際に「ありがとうシール」を手渡す運動を始めると発表した。
全会員305人に「ありがとう」と書かれた独自のシール10枚を配り、外出時に使うよう呼び掛ける。

同日、京王プラザホテル(東京都新宿区)で記者会見を開いた。
昨年8月に盲導犬使用者が東京メトロの駅から転落死した事故を受け、
外出時に声を掛けられる機会が増えたことが背景にあるという。

郡司会長は、事故を防ぐにはホームドアなどハード面の整備だけでなく、人の目で見守ることが重要と判断。
「盲導犬だけではなく私たち使用者の生活をもっと知ってほしい」と話している。

同会は1994年に発足。
これまで盲導犬使用者は助けてもらうばかりで、自分たちから発信することがなかったとの思いが会員の間で広がり、
今年5月の同会総会で決議したという。

郡司会長ら盲導犬使用者は同日、同ホテル主催の「盲導犬ユーザーサポート体験」にも参加。
ホテルの宴会場に設けられた駅の改札口やホーム(模型)を、小学生のサポートを受けながら歩いた。
 
歩行を案内した京王電鉄の担当者は「お子様の体験学習の機会として企画した。
駅は危険なので、実際にお客様が視覚障害者をサポートすることは控え、駅員に申し出てほしい」と話した。 

熱演 触れ合い 感動-皇太子ご夫妻「すばらしい」

2017.09.05 16:57|情報
以下、奈良新聞 より引用

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2日夜に「第32回国民文化祭なら2017(国文祭)」と
「第17回全国障害者芸術・文化祭なら大会(障文祭)」の開会式に出席された皇太子ご夫妻は
翌3日、両祭の一環として開催された、王寺町内でのハンドベルコンサートを鑑賞された。
午後には奈良市内に戻られ、車いすを使ったダンスパフォーマンスを見学され、出演者とも交流を深められた。 

ご夫妻は同日午前、王寺町畠田9丁目の町文化福祉センターを訪れて「王寺ハンドベル・フェスタ」を観覧された。

コンサートでは、同町内の小学生らからなる「王寺町ジュニアハンドベル・バンビーナ」や、
女性を中心とする「ベルノワ」「ピアチェーレ」の3団体が演奏。
歌手、星野源さんのヒット曲「恋」やシルクロードのテーマ曲、クラシック音楽などを披露した。
メンバーはそれぞれ音の高低が違う大小さまざまな120個のベルを振り鳴らし、
リズムに合わせながら心地良いハーモニーを奏でた。

鑑賞後、皇太子さまは「すばらしい演奏でした」と出演者をねぎらわれた。
ハンドベルを持っていた、町立王寺北そう学校5年の大西遥斗君(11)には
「鳴らさせてください」と声を掛けられたといい、ハンドベルを1回鳴らされた。

雅子さまも「コツを教えてください」と、大西君に指導を仰がれ、
雅子さまも指示通りにハンドベルを1回鳴らされた。
大西君は「緊張したけど、優しかった」と、ご夫妻の印象を語った。

午後、ご夫妻は奈良市内に戻られ、同市登大路の県文化会館で、
11月に同会場で開催される障文祭の「車いすダンス」を視察された。

踊ったのは、車いすダンスの市民団体「ジェネシス・オブ・エンターテイメント」(大阪市)のメンバーと、
11月の講演に出演する小中学生ら。
車いすダンサーと健常者のペアや、車いすダンサー同士で華麗な踊りを披露した。

ご夫妻は「すばらしかったです」「動きが難しそうですね」「楽しいですか」と出演者に話しかけて回られ、
出演者らは「励みになります」「涙が出ます」と喜んでいた。

一方、ご夫妻に同行しながら車いすダンスを見学していた、荒井正吾知事や文化庁の宮田亮平長官も
障害を乗り越えた激しい踊りに感激した様子。
涙を流しながら、出演者にハイタッチする場面も。

「ジェネシス・オブ・エンターテイメント」のメンバーで、三郷町信貴ケ丘2の会社員、鈴木剛さん(43は)
「ご夫妻に興味を示していただけた。11月の本番に向け、一体となって練習に励みたい」と語った。

ご夫妻は3日夕、多くの市民に見送られ、奈良市の近鉄奈良駅から電車で帰京された。

奈良に咲く 文化芸術集う - 国文祭・障文祭なら2017

2017.09.04 18:00|情報
以下、奈良新聞より引用

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国内最大規模の文化の祭典「第32回国民文化祭・なら2017(国文祭)」と
「第17回全国障害者芸術・文化祭なら大会(障文祭)」の開会式が2日夜、
奈良市雑司町の東大寺大仏殿前で催された。
式典には皇太子ご夫妻もご出席。約2000人の来場者が祭典の開幕を祝った。

両祭が一体となって実施されるのは、今回の県開催が初めて。
国文祭を所管する文部科学省の林芳正大臣と、障文祭を所管する厚生労働省の加藤勝信大臣が、
そろって開会式に出席。

オープニングセレモニーは東大寺の僧侶らが経典を読み上げる荘厳な雰囲気の中で幕を開け、
続いて林、加藤両大臣があいさつした。

大会会長を務める荒井正吾知事は「国文祭と障文祭を全国で初めて一体開催することにより、
文化芸術が障害のある方の活力の源になるとともに、新たな関係性が生まれることも期待している」とあいさつ。
「両祭を通して、文化を奈良県のブランドとして全国や世界に発信したい」とアピールした。

皇太子さまは「奈良県は、多くの文化財と美しく豊かな自然景観に恵まれた地であり、
 仏教をはじめ、さまざまな文物が外国からもたらされ、日本古来の文化と交流、融合を果たし、
 今に続く日本文化の源が生み出されました。
 この奈良の地で両祭が開催されることは誠に喜ばしいことであります。
 新たな文化を創造していく場として、両祭が大きな成功を収めることを願います.」とお言葉をのべられた。

式典のアトラクションでは、伎楽や舞楽の上演、子ども狂言、書道パフォーマンスなどが演じられ、
日本の文化が奈良から発祥、発展する様子を表現。
また、車いすダンスやバサラ踊りも披露され、障害の有無を超え、
多士済々の舞台演出で会場を盛り上げた。
司会は八嶋智人さんが務めた。

両祭は、それぞれ都道府県の持ち回りで毎年開かれており、
いずれも県が開場となるのは初めて。
11月30日までの3か月間、県内39市町村を会場にして音楽や舞踊、美術、作品展など
103のイベントが各地で展開される。

日本語字幕版上映スケジュールのご案内

2017.09.02 14:04|字幕付映画
東宝株式会社 西日本映画営業部より、情報提供です。

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「奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール」  日本語字幕版上映劇場

奈良県 TOHOシネマズ橿原
2017年10月4日~7日(4日間)

FAX 0744-21-6060

なお、変更がある場合もございます。
上映回数・上映開始時間も含め、
お出かけの際は念のため各劇場に
ご確認くださいますよう、よろしくお願いします。

ライブラリー情報

2017.09.01 19:46|ライブラリー・DVD
自主制作DVD 第24弾
「ろう運動と政治のつながり-聞こえない議員として-」(字幕付き)の
貸し出しが、始まりました。

20170901.jpg

第31回「耳の日」記念のつどいでの講演です。
薄い緑色のディスクが目印ですよ。
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