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日本語字幕版上映スケジュールのご案内

2018.02.17 14:05|字幕付映画
東宝株式会社 西日本映画営業部より、情報提供です。

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「映画ドラえもん のび太の宝島」  日本語字幕版上映劇場

奈良県 TOHOシネマズ橿原
2018年3月25日~28日(4日間)

FAX 0744-21-6060

なお、変更がある場合もございます。
上映回数・上映開始時間も含め、
お出かけの際は念のため各劇場に
ご確認くださいますよう、よろしくお願いします。
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聞こえない世界で/5止

2018.02.09 12:56|制度
以下、毎日新聞 より引用

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◆取材後記 手話通訳介し4回6時間半 双方向性あっての共生

「聞こえない人が地元で普通にあいさつして、誰かとつながる」。
県聴覚障害者協会の嘉田眞典さん(53)=三田市ゆりのき台=が目指すそんな社会を実現するためには、
聞こえる人の理解と協力が不可欠だ。
嘉田さんを含め、昨年から聴覚障害のある人への取材を続けてきて、その思いを強めている。

昨年12月、県内のろう者の男性に取材を試みた。ファクスで取材依頼を送ったが、反応が無い。
男性宅を訪れ、簡単な筆談や手ぶり身ぶりで会話すると、男性は「文章は読めるけど、書くのは苦手」。
だからファクスは返せなかった。聴覚障害者の中には、日本語は第2言語という人もいる。
手話を母語とする人が、誰でも日本語に通じているわけではないと知った。自分の先入観に気付かされた瞬間だった。

嘉田さんへの取材を始めたのも、同じ頃からだ。
12月下旬から計4回の取材を重ねて、取材時間は計約6時間半に及んだ。
記者は手話ができないため、協会の方の手話通訳を介しての取材だった。

「小学校の頃、朝はどうやって起きていたんですか」と質問した時、嘉田さんは
「朝食のみそ汁の匂いとか、家族に起こされた」。
逆に、「聞こえる人は、(食材を切る)包丁の音で起きるんでしょう?」と尋ねてきた。
包丁の音では小さくて起きられないと、その場は笑いが起きたが、印象的な話だった。

聞こえない世界がどんなものかと、想像しながら取材を重ねてきた。
逆に、嘉田さんも聞こえる世界を想像することがある。
「ドアの開け閉めの音がうるさいと言われたことがあって、音のマナーがあると知った。
 聞こえる人と交流して気付かされることがあるんです」。交流して初めて気付かされることがある。
それは、まさに記者が取材を通して「聞こえない世界」に対して感じてきたことでもあった。

補聴器を付けたり手話で話したりする聴覚障害者を、電車の中や街中で何度も見かけてきた。
だから同じ社会で共に生きているのだと思っていた。交流したことは、取材を始めるまで一度も無かったのに。

聴覚障害者の多くは、音声言語の日本語を土台に成り立つこの社会に、適応するように生きている。
他方、聞こえる人は、聞こえない世界をどれだけ、より正確に想像できているだろうか。
聞こえない世界と聞こえる世界を想像し合い、お互いに知ろうとすること。
その双方向性があってこそ、私たちは共に生きていける。

手話に関する特集『VOICE』

2018.02.08 09:59|情報
以下、関西学院大学 手話言語センター からの情報です。

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【毎日放送ニュース番組『VOICE』で取材の模様が放送されます】

毎日放送ニュース番組『VOICE』にて手話に関する特集が放送されるにあたり、
専門技術員の川口・下谷が当センターにおいて取材に応じました。
その模様が番組で紹介されます。是非ともご覧ください!!

【番組名】毎日放送ニュース番組『VOICE』
     ※放送地域:近畿2府4県+徳島県
【放送日】2月8日(木)18:15~19:00
【内容】手話言語やろう教育などについて

聞こえない世界で/4

2018.02.07 12:07|情報
以下、毎日新聞 より引用

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◆健聴者との橋渡し施設を開所 夢は手話の普及

阪神大震災(1995年)時に孤立した聴覚障害者の救援活動に奔走した、
ろう者の嘉田眞典さん(53)=三田市ゆりのき台=は96年、県聴覚障害者協会の事務局長に就任した。
「震災で聴覚障害者への理解が不十分だと分かった。行政や市民に、積極的に働きかけて理解を広めないといけない」。
日本語のコミュニケーションが困難な人も少なくない聴覚障害者。
嘉田さんが中心になって取り組んだのが、聴覚障害者向けの情報の提供や
健聴者と聴覚障害者との橋渡しをする施設の設立だった。

県内の聴覚障害者団体や支援団体で設立委員会を2001年に組織。
建設に向けて街頭に立って協力を呼びかけ、募金活動も展開。
4年間の活動の末、手話通訳者の養成・派遣や、聴覚障害者の生活相談や情報提供などをする
「聴覚障害者情報センター」が県立施設として神戸市灘区に開所した。嘉田さんはセンター長に就いた。
県が関わることで、財政面や人材面でより幅広い事業ができるようになった。

聴覚障害者に対応した特別養護老人ホームが06年に淡路島に開かれるなど、
聴覚障害者たちの活動が次々と実を結び始めていた。
それは震災の苦い経験がもたらしたものでもあった。嘉田さんは実感を込める。
「震災が明らかにしたのは、震災前の日常から、
 多くの聴覚障害者が近所の人との付き合いが少なく、孤立していたということです」。
だからこそ、日ごろから聴覚障害者の理解を広める必要があった。

ただ、震災から10年以上が過ぎた当時、被災した聴覚障害者の高齢化や、震災体験の風化も進んでいた。
情報センターは震災後15年に合わせ、ろう者たちが震災体験を手話で語った様子を映像で記録したDVDを制作した。
嘉田さんは「(視覚言語の)手話は、身ぶり手ぶりや表情で表現するから、映像で見てほしかった」と振り返る。
DVDは全国の聴覚障害者団体などに配布。健聴者向けに字幕も付けた。

阪神大震災の教訓は、その後の震災救援に生かされている。
阪神大震災時に聴覚障害者らが県に働きかけた全国への手話通訳士の派遣要請は、
東日本大震災(11年)や熊本地震(16年)で厚生労働省を通じて実現した。
他方、避難所などでの聴覚障害者の孤立や情報不足は、同じことも繰り返されたという。
各地で震災経験を講演している嘉田さんは、
「以前に比べれば、スマートフォンの普及などで聴覚障害者への情報提供の方法は増えた。
 ただ、聴覚障害者には読み書きが苦手な人もいる。聞こえない人の特性の理解をもっと広げることが課題」と話す。

17年4月に情報センターから県聴覚障害者協会に戻り、現在はろう者の妻、健聴者の母、子2人と共に暮らす嘉田さん。
子どもたちとも手話で話す。近所の人にも聞こえないことは知られ、すれ違う時に手話であいさつしてくれる人もいる。
「若い時には音を聞きたいと思ったことがある。でも今はあまり思いません。聞こえないなりに、楽しむことができるから」

嘉田さんにはこんな夢がある。
「健聴者の方に手話を広めたい。聴覚障害者が地元で普通にあいさつし、誰かとつながる。
 自分の言語で話したい時に話せる相手がいる。そういう場所が、たくさんできるようにしたいです」。
まだ道半ばだ。

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聞こえない世界で/3

2018.02.05 11:31|情報
以下、毎日新聞 より引用

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◆阪神大震災で救援活動 理解不足、歯がゆく

阪神大震災が起きた1995年1月17日の朝、ろう者の嘉田眞典さん(53)=三田市ゆりのき台=は、
明るくなるのを待って車で神戸市中央区の県聴覚障害者協会事務所に向かった。
午前8時ごろ、新神戸トンネルを抜けると、被害の無かった自宅周辺とは様子が一変した。
街から黒煙の柱が立ち上がり、家屋は倒壊して道にもひびが入っていた。

午前10時ごろにたどりついた事務所には誰もおらず、書類が散乱。
状況を協会の事務局長らに知らせる必要があったが、ファクスが通じない。
車で高砂市の事務局長宅に向かうが、渋滞で断念した。

震災から4日後、宝塚市の協会理事長宅で、上部団体の近畿ろうあ連盟や全日本ろうあ連盟の関係者らと
初めて集まり、救援対策本部の設置を決めた。対策本部の拠点として、
停電したままの神戸市兵庫区の福祉施設で、ろうそくや懐中電灯で視界を確保しながら手話で話し合い、
翌日から本部を開いた。

当時、被災した聴覚障害者には、避難所で孤立して情報が入らず、配給の食事をもらえない人たちが多くいた。
神戸市東灘区の自宅で被災したろう者の山村賢二さん(86)と妻妙子さん(83)は震災直後、
外を移動する人々の流れに付いていき、避難所となった小学校に入った。
だが避難所では水や食事の配給を知らせるアナウンスが聞こえず、近くにいた他の被災者がいつの間にかいなくなる。
気付いた後、急いで配給の列に並ぶが、二人でコップ1杯分の水しかもらえない時もあったという。
賢二さんは「みんなも被災して苦しくて、自分のことで精いっぱい。頼み事はできなかった」と振り返る。

孤立する聴覚障害者の救援のため、嘉田さんは対策本部の「行動隊」として、ボランティアに来た
各地の手話サークル員の人たちを5、6人ごとに班に分け、聴覚障害者の安否確認に当たった。
嘉田さんは班の割り振りや情報の集約を担い、時には自身も避難所を回った。
泊まり込みで、休みの無い救援活動の日々が1カ月近く続いた。
「震災前にテレビで手話が取り上げられることが増え、聴覚障害者への理解が広まってきたと思っていた。
 でも震災が起きた時、聴覚障害者は孤立してしまった。歯がゆくて、悔しかった」。
その悔しさと、「聴覚障害者みんなに元の生活に戻ってほしい」という思いが、嘉田さんを突き動かした。
神戸では約270人いた協会員を含め、1500人以上の所在を確認した。
ただ、非協会員を含む聴覚障害のある被災者はもっと多かったとみられる。

また震災当時、神戸市内でも区役所などに手話通訳者がいないことがあった。
対策本部は自主的に神戸市の福祉事務所に手話通訳士を派遣すると共に、
県と市に、全国に手話通訳士の応援を要請するよう求め続けた。
これを受け、県は他都道府県に要請した。対策本部の活動が実った。

震災が浮き彫りにした、聴覚障害者への理解不足を目の当たりにした嘉田さんは、
「聞こえないということ自体が、外から見えにくい。行政にも周囲の健聴者にも繰り返し、理解を広めていくしかない」。
震災後、その経験をきっかけに聞こえない人たちが、より大きな声を上げ始める。

手話で「頑張れ」励ましたのに 聴覚障害児、はねられ死亡

2018.02.03 11:26|情報
以下、毎日新聞 より引用

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耳の不自由な子供たちが歩道に倒れて動けなくなり、
駆け付けた職員らが「頑張れ」と手話を使い、必死に励まし続けた--。

大阪府立生野聴覚支援学校(大阪市生野区)のすぐそばで1日、
下校中の児童と教諭がショベルカーにはねられ、5人が死傷した。
聴覚障害のある児童のため、通学路での安全運転を呼び掛けていただけに、
住民らはショックを受け、悲痛な表情を浮かべた。

聞こえない世界で/2

2018.02.02 10:53|情報
以下、毎日新聞 より引用

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◆高校卒業後に手話学ぶ 母語で会話する喜び

3歳で失聴し、難聴学級で口話教育を受けて育った嘉田眞典さん(53)=三田市ゆりのき台=が
手話を使うようになったのは、高校卒業後のことだ。
当時住んでいた尼崎市のろうあ協会に入り、ろう者たちが手話で会話する中に、初めて加わった。
就職した大阪市の機械メーカーの工場でも、従業員に手話を使うろう者がいた。
ろう者とやりとりする中で、1年ほどで自然と手話が身についた。
「誰かと話す時に、書かなくても良い。スムーズに思うことを伝えられるのが、すごくうれしかった」

口話法や筆談で日本語のコミュニケーションをすることに苦労した嘉田さんにとって、
手話を覚えたことは、自分の母語を獲得した喜びでもあった。

聞こえない人が手話を獲得することは、人格形成にも影響する。
手話カウンセラーなどの活動をする神戸大の河崎佳子教授(臨床心理学)は、
「聴覚障害者は音声言語のコミュニケーションで『全部分かる』という経験をしていないことが多い。
 自分が何者かを理解して語る、ということが難しく、アイデンティティー形成に関わる」と指摘する。
そして、聴覚障害者の手話との出会いについて「誰もがチャンスを持てるようにするべきだ」とその重要性を強調する。

手話という母語を獲得した嘉田さんは、ろう者の社会に入り込んでいく。
機械工場で働きながら、尼崎市のろうあ協会員として、メンバー募集や親睦会の開催などの交流を進めた。
家族や親戚と集まっても「会話に入れず寂しかった」
年末年始は、ろう者の友人たちと初詣に行ったり初日の出を見たりして過ごすようになった。
1991年、県聴覚障害者協会の専従職員に転職した。

家族で三田市に引っ越した後の冬のある朝。大きな揺れで目が覚めた。95年1月17日のことだ。
自宅は停電せず、テレビもついた。京都などの地震被害はテレビで知ったが、神戸の状況が分からなかった。
協会の職員に連絡してもファクスがつながらない。「いったいどうなっているんだろう」。胸騒ぎがした。

◇日本語完全理解、口話法では困難

聴覚障害者の日本語理解を巡っては、聞こえない度合いや、失聴の時期によって、
理解の程度にばらつきがあると専門家は指摘する。
神戸大の河崎佳子教授によると、幼少期に失聴した場合でも、2、3歳ごろまでに聞こえた経験があると、
先天性の失聴者よりも日本語を理解しやすいことがあるという。
「口話法中心の教育現場では、先天性の失聴者の抱えるハンディキャップは大きい」と話す。

他方、より軽度の難聴者で「手話は必要ない」という人も、
日本語をうまく聞き取れずに誤解したままコミュニケーションをとって傷付くことがある。

いずれの場合でも、聴覚障害者にとって日本語を口話で完全に理解することは難しいといい、
河崎教授は聴覚障害者が幼少期に、日本語や口話法だけでなく、手話に触れる重要性を強調する。
「日本手話を学ぶ機会を保障した上で、日本語や日本語対応手話を学ぶことが大切だ」と提言する。

■ことば

「日本手話」と「日本語対応手話」

日本の場合、大きく分けて手話は2通りある。
多くのろう者にとって第1言語となる「日本手話」は、
日本語とは異なる独自の体系を持つ言語で、眉や唇の動きなど表情も使って表現する。
これに対して「日本語対応手話」は、
日本語の語順に合わせて、単語を手話に置き換える。
兵庫教育大の鳥越隆士教授(心理学)によると、
日本手話を含む手話は日本語と同じ文法に基づくといった誤解が健聴者の間にある。
手話は世界共通という誤解もあるが、手話は国や地域で異なり、
同じ表現の手話単語が地域によって違う意味になることもある。

聞こえない世界で/1

2018.02.01 10:32|情報
以下、毎日新聞 より引用

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◆薬の副作用、3歳で聴力失う 授業は苦労の連続

「幼稚園に行くとお菓子をもらえて、いつも楽しみだった。ただ先生の話すことがよく分からなかった」。
県聴覚障害者協会の事務局次長、嘉田眞典さん(53)=三田市ゆりのき台=が覚えている一番古い記憶だ。
大阪市に生まれ、尼崎市に引っ越して3歳上の姉と2人姉弟で育った。
3歳ごろ、重病にかかり飲んだ薬の副作用で、聴力を失った。
それは後で知ったことで、当時のことは覚えていない。
幼稚園に通い始めて補聴器を付けたが、なぜ付けるのかよく分からないでいた。
耳が聞こえないことを認識していなかったのだ。

難聴学級があった尼崎市立北難波小(現市立難波の梅小)に入学。
同級生とのやりとりで、相手が健聴者の時と聴覚障害のある人の時で、伝わり方に差があることに気付いた。
「自分が聞こえないのだということが、段々分かったんです」

朝はいつも、家族に体を揺り動かされて起こされたり、朝食のみそ汁の匂いがしたりして目覚めた。
家族で聞こえないのは嘉田さんだけ。日常の食卓や親戚が集まる正月も、会話にあまり参加できなかった。

家族や友人と話す時は、相手の唇の動きを見て日本語を理解し、
自分も発声する「口話法」や、筆談、身ぶり手ぶりを使った。
口話法は小学1、2年の頃、難聴学級の授業や放課後に習った。
発声した健聴者の先生の喉に手を当て、自身の喉も同じ振動になるよう発声する。
「『サ』と言ってるつもりでも『タ』だと言われる。自分の声が聞こえないのに何度も練習するのが、つらかった」

健聴者と一緒の授業では、先生が早口でほとんど読み取れない。
教科書は隣の人がめくった時にめくり、板書は全部そのままノートに写し取る。
意味は分からなかった。進学した高校は難聴学級が無く、聞こえないのは自分だけ。
先生の唇の動きが分かるよう最前列の席で授業を受けたが、ほとんどついて行けなかった。
それでも、「友達が口話が分かるようにゆっくり話してくれた。
仲間内で分かるジェスチャーのサインもあり、コミュニケーションができた」。周囲の理解があったからこそだった。

手話教育に詳しい兵庫教育大の鳥越隆士教授(心理学)によると、
教育現場は口話法が重視され、手話は事実上禁止されていた。
聴覚障害者は特別支援学校の寄宿舎などで内々に手話を学んできた。
他方、特別支援は数が少ないといったことから、難聴学級のある普通学校に進んで手話に触れずに育つ児童も多い。

しかし、口話では健聴者の勉強の進度について行けず、「自分が悪い」と自信を失う人もいる。
近年手話を取り入れる学校も増えたが、多くが補助的な扱いだ。

「聴覚障害者」といっても、手話や日本語をどれだけ使いこなせるかは、
その人の聞こえない度合いや、受けた教育などによって異なる。
鳥越教授は「幼少期から聞こえない、聞こえにくい人同士で交流して、
自分がどれくらい聞こえないのかを認識したり、手話に触れたりすることが
自分のコミュニケーション手段を獲得するために大切だ」と指摘する。
高校卒業後に手話を学んだ嘉田さんにとっても、手話との出会いは喜びだった。

   ◇  ◇

手話を言語として理解・普及させることを目指す「手話言語条例」の制定が広がっている。
一方で、手話や聞こえない人たちへの誤解は現在も多くあり、その深刻さは十分に理解されていない。
聞こえない、ということがどういうことなのか。
県聴覚障害者協会に長年勤め聴覚障害者の交流や支援に取り組んできた嘉田さんの半生をたどりながら、考えたい。
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