手話と戦争

2017.01.26 14:40|情報
以下、毎日新聞 より引用

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戦時中、高射砲弾の信管を造る軍需工場が兵庫県尼崎市にあった。
今はない尼崎精工という会社で2000人近くが働き、その中に100人を超える聴覚障害者がいた。

1940年にぜいたく禁止令が出され、京都で着物の染色をしていた聴覚障害者が仕事を失う。
その人たちを採用したのが始まりという。

多くの聴覚障害者をその後も雇ってもらおうと彼らは人一倍働いた。
グループ別の生産競争で優勝し、相撲大会でも活躍した。
身を寄せ合って生き抜くため工場内に自治組織も結成している。

これらの事実は、社会福祉法人理事長を務める洲本市の大矢暹(すすむ)さん(69)が当時の工員たちに聞き取り、
資料を読み込んで突き止めた。元工員からは「私の造った爆弾はたくさんの人を殺した」という証言も得た。
国家総動員体制に組み入れられた聴覚障害者のつらい言葉だ。

大矢さん自身も子どもの時から聴覚に障害がある。
調査のきっかけは20代前半の頃、年配の人が手話で「尼崎」を表現するのに、銃を構える動作をしたことだ。
手話に隠された歴史を追い続け、その成果となる研究論文がこの秋刊行された市制100年記念の尼崎市史に載った。

高度成長期に多くの自治体が通史を出した。
しかし、尼崎市のように歴史資料を保管、公開している公立の史料館があるところは少ない。
コストがかかるのが理由とはいえ、歴史や文化は地域の財産という意識を持つのは大切なことだろう。

産業戦士となった聴覚障害者に光を当てた大矢さんの労作は、
史料館の専門職員からの助言がなければ埋もれたままだったかもしれない。
市民の研究を支える拠点を増やしたい。
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