聞こえない世界で/3

2018.02.05 11:31|情報
以下、毎日新聞 より引用

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◆阪神大震災で救援活動 理解不足、歯がゆく

阪神大震災が起きた1995年1月17日の朝、ろう者の嘉田眞典さん(53)=三田市ゆりのき台=は、
明るくなるのを待って車で神戸市中央区の県聴覚障害者協会事務所に向かった。
午前8時ごろ、新神戸トンネルを抜けると、被害の無かった自宅周辺とは様子が一変した。
街から黒煙の柱が立ち上がり、家屋は倒壊して道にもひびが入っていた。

午前10時ごろにたどりついた事務所には誰もおらず、書類が散乱。
状況を協会の事務局長らに知らせる必要があったが、ファクスが通じない。
車で高砂市の事務局長宅に向かうが、渋滞で断念した。

震災から4日後、宝塚市の協会理事長宅で、上部団体の近畿ろうあ連盟や全日本ろうあ連盟の関係者らと
初めて集まり、救援対策本部の設置を決めた。対策本部の拠点として、
停電したままの神戸市兵庫区の福祉施設で、ろうそくや懐中電灯で視界を確保しながら手話で話し合い、
翌日から本部を開いた。

当時、被災した聴覚障害者には、避難所で孤立して情報が入らず、配給の食事をもらえない人たちが多くいた。
神戸市東灘区の自宅で被災したろう者の山村賢二さん(86)と妻妙子さん(83)は震災直後、
外を移動する人々の流れに付いていき、避難所となった小学校に入った。
だが避難所では水や食事の配給を知らせるアナウンスが聞こえず、近くにいた他の被災者がいつの間にかいなくなる。
気付いた後、急いで配給の列に並ぶが、二人でコップ1杯分の水しかもらえない時もあったという。
賢二さんは「みんなも被災して苦しくて、自分のことで精いっぱい。頼み事はできなかった」と振り返る。

孤立する聴覚障害者の救援のため、嘉田さんは対策本部の「行動隊」として、ボランティアに来た
各地の手話サークル員の人たちを5、6人ごとに班に分け、聴覚障害者の安否確認に当たった。
嘉田さんは班の割り振りや情報の集約を担い、時には自身も避難所を回った。
泊まり込みで、休みの無い救援活動の日々が1カ月近く続いた。
「震災前にテレビで手話が取り上げられることが増え、聴覚障害者への理解が広まってきたと思っていた。
 でも震災が起きた時、聴覚障害者は孤立してしまった。歯がゆくて、悔しかった」。
その悔しさと、「聴覚障害者みんなに元の生活に戻ってほしい」という思いが、嘉田さんを突き動かした。
神戸では約270人いた協会員を含め、1500人以上の所在を確認した。
ただ、非協会員を含む聴覚障害のある被災者はもっと多かったとみられる。

また震災当時、神戸市内でも区役所などに手話通訳者がいないことがあった。
対策本部は自主的に神戸市の福祉事務所に手話通訳士を派遣すると共に、
県と市に、全国に手話通訳士の応援を要請するよう求め続けた。
これを受け、県は他都道府県に要請した。対策本部の活動が実った。

震災が浮き彫りにした、聴覚障害者への理解不足を目の当たりにした嘉田さんは、
「聞こえないということ自体が、外から見えにくい。行政にも周囲の健聴者にも繰り返し、理解を広めていくしかない」。
震災後、その経験をきっかけに聞こえない人たちが、より大きな声を上げ始める。
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